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リスクに対する本能と「ワンワン!」仮説

メンバー 岸本 充生
近頃1歳の娘が、イヌやクマなどの動物のイラストや写真、街中やテレビの画面の中の実物を見つけると、「ワンワン!ワンワン!」と素早くぼくに教えてくれる。いつも懸命に大きな声で、ぼくが振り向くまで何度も何度も知らせてくれるので、どうしてそこまで必死なんだろうかとずっと不思議だった。

 先日ふと、仮説を思いついた。ぼくらのずっと昔の、狩猟採集で生きていた先祖が直面していたリスクの1つが「動物に捕食されるリスク」だ。そうした時代には、いかに早く捕食動物の接近を見つけられるかが自分や家族の生死を分ける。そうして、捕食動物の接近に早く気付くことができた人やその家族だけが生き延びることができた。逆に言うと、捕食者の接近に鈍感な人々は淘汰されていったのだ。つまり、1歳の娘の「ワンワン!」は、人類が長い時間をかけて何度も血を流しつつ獲得した、生存のための本能なんじゃないだろうか。あどけない笑顔の裏に、捕食動物との厳しい戦いを生き抜いてきた人類の歴史が凝縮されているのかもしれないなんて考えると感慨深い。そういえば、「ワンワン!」と教えてくれるときの娘の顔はとても凛々しい。

 ヒトの本能が形成されたのは狩猟採集時代のこと。つまり、様々な危険に対する本能も、狩猟採集時代に直面していた具体的なリスクに適応する形で形成されてきた。ヒトの本能はそこからあまり変わっておらず、近年の急速な技術革新とのギャップが広がっていることが、人々が新しいリスクに合理的に反応できず、ドタバタしてしまう原因の1つだ。狩猟採集時代の先祖が日常的に直面していた主なリスクには、1)事故、2)飢餓、3)疾病、4)戦争、5)協力の失敗(ただ乗りにあう)、6)子孫を残せないこと、などがある。捕食者に食べられるリスクは1)に含まれる。

 危険に対してまず扁桃体が反応し脳幹にアドレナリンなどのホルモンを流し込む。そのため、脳の高次の領域がシグナルを受け止めるまでの一瞬、合理的な反応よりもずっと大きな恐怖を感じることになる。このような「臆病な反応」には進化的な利点、すなわち、素早く危機を察知し生存に有利になるという利点がある。しかし時にはあえてリスクをとって獲物を捉えることも生存のためには必要である。そのためヒトは、例えば、いきなり動物に出くわした場合、とっさに両者のバランスを考え、瞬時に「逃げるか、戦うか」を判断する能力を身に付けてきた。しかし現代社会では、多くの危険は噂やメディアを通じてやってくる。ゆっくりと分析する時間が与えられ、これが逆に考えすぎたり、考えすぎなかったりという新たな混乱のものとなっている。

 娘が言う「ワンワン!」の対象は、考えてみれば、ライオン、イヌ、クマ、など、過去にヒトが襲われた可能性のある動物ばかりだ。ライオンを指さして「ワンワン」と言っても、「それはイヌじゃないよ」と訂正するのではなく、今度からは「よく見つけた!」と褒めてやることにしよう。

参考文献
1) Steven Pinker (2002).The Blanck Slate: The Modern Denial of Human Nature. Allen Lane/The Penguin Press.(スティーブン・ピンカ―著、山下篤子訳『人間の本性を考える(上)(中)(下)』NHKブックス)
2) Tucker, W. T. and Ferson, S. (2008). Evolved altruism, strong reciprocity, and perception of risk. Annals of the New York Academy of Sciences 1128: 111-120.
3) LeDoux, J. コメント(”How Americans Are Living Dangerously” Time Nov. 26, 2006).