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あらまほしき研究者~第13話 五十にして天命を知る

メンバー 松永 猛裕
 第4話に書いたように、私の高校の時の化学の先生は、戦時中、国内の超エリートが集まる陸軍登戸研究所(以下、登戸研究所と略す)に勤めていたようだ。勤め先の情報は高校の時にはわからなかった。1988年、私が爆発に関する博士論文を完成させて、折角ならば先生に献本したいと考え、手紙を書いた。すると、奥様から「主人は既に亡くなりました。仕事のことはあまり話してくれませんでしたが、登戸研究所だったようです。」とのお返事を頂いた。

登戸研究所の跡地は現在、明治大学生田キャンパスになっており、登戸研究所の研究施設はそのまま保存されて資料館として公開されているようだ。是非、行ってみたいと思っていたところ、先日、その機会があった。小田急線「生田」駅下車、歩いて15分の見晴らしのよい高台にあった。

この資料館は2010年3月、明治大学が平和教育のために開設した。登戸研究所は旧日本軍が秘密戦のための兵器・資材を研究開発するために設置した研究所であり、当時ですらその存在は秘密にされていた。秘密戦とは、直接、戦うのではなく、スパイ、毒物、偽札、生物兵器等の間接的な妨害を行う活動のようだ。ウィルス兵器や爆弾を搭載する予定だった風船爆弾もここで鋭意、研究開発されていた。この資料館は旧日本軍の研究施設をそのまま保存・活用している国内唯一の事例であるとのこと。また、歴史に残ることのない秘密戦に焦点を当てているという点でも国内唯一のようだ。

資料館に入り、第1展示室に入って衝撃を受けた。そこには1944年の組織図がパネルになっており、先生のお名前が生々しく書かれていた!

「第4科 夏目五十男少佐・・・第1科、第2科研究品の製造、補給、指導」

壁、照明、ガラス器具、暗室、流し台などは当時のままだという。あの夏目先生が若い頃、ここで下瀬火薬(ピクリン酸)などを扱っていたのだろうか?67年後に自分の教え子が爆発研究者としてここを訪れるなんて妙な縁と言わざるを得ない。

キャンパス内には神社があった。当時は「八意思兼神(やごごろおもいかねのかみ)」という研究(知恵)の神を祭っており、研究中の事故による殉職者も合祀されていたと言われている。境内に句碑があり、「すぎし日は この丘にたち めぐり逢う」と刻まれていた。「忌まわしい研究開発をしていたすぎし日のことは、誰にも明かさずに墓場まで持って行こうと思っていたが、戦後70年を経てこの丘に立って話すことが許された」という意味らしい。この碑は1988年建立となっているが、この頃から元所員によって研究所のことが語られ始めたようだ。全国の高校で「平和ゼミナール」活動が展開される中で、元所員の方はこう言ったという。「大人には話したくなかった。高校生だから話したのだ。私たちの過去が平和のために役立つなら。」

私は今、戦時中の老朽化・遺棄化学兵器(毒ガス弾)の無害化処理技術を研究している。神妙な気分になったので、神殿で手を合わせた。「夏目少佐の最後の弟子です。皆さんの後はお任せ下さい。」と。

私が高校生だった頃、夏目先生は70歳過ぎではなかったか?化学の成績が良かった私には特別良くお話させて頂いたような気がする。温厚かつ超天才な方で、化学の真髄を教えて頂いた。居眠りする生徒が出始めると風船爆弾の話や爆薬の話などをして頂いて、リフレッシュさせて頂いた。しかし、無差別兵器の開発に携わってしまったという過去はそんな生やさしいものではなかっただろう。辛そうに歩いて出勤するお姿を何度か見た。後生の人を教育することで懺悔(ざんげ)されていたのではないか?

重い話になってしまったので、最後に口直しをしよう。疑いなく夏目先生は過去に爆薬の研究者だった!また、私の自己紹介で書いたように、大学の卒論は大気汚染の研究がしたかったのに、ジャンケンに負けたために爆発の研究をやることになってしまった。そして、今は爆発を研究している国内唯一の公的研究機関に勤めている。同業者がほとんどいない専門分野で、このご縁は「天命」と言うべきであろう。ジャンケンについては後日談がある。なにかの機会でジャンケンに負けたときに相手に言われた。「松永さんはチョキしか出さない」って。「げっ!マジで?そう言われれば・・・」とがく然とした。しかし、そんなクセも含めて、「五十にして天命を知る」と感じている今日この頃である。

次回:2012年7月上旬更新予定